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篠原一男 空間に永遠を刻む――生誕百年 100の問い

コラム
「建築のすそ野を広げたい」という想いで設立された編集事務所Office Bungaの磯達雄さんの視点から、展覧会をより深く楽しむのに役立つ情報をお届けします。

今回は特別編として、本展アシスタントキュレーターの小倉宏志郎氏のナビゲートで開催しているギャラリートークの様子を一部抜粋して、随時公開していきます。
篠原一男展を楽しむためのコラム特別編 ギャラリートークレポート
第1回「篠原一男の線と抽象」
出演:天内大樹(青山学院大学教授)×小倉宏志郎(東京科学大学技術支援員)

小倉――ギャラリートークでは、篠原一男について、芸術、歴史、図面という3つのテーマから読み解いていきます。初回はゲストに青山学院大学准教授の天内大樹さんを招き、芸術という切り口から考えてみたいと思います。展覧会で配布している「『篠原一男 100の問い』への『100の応答』」という冊子では、篠原の「ハード・エッジの空間」という言葉に対して、短い文章を書いていただきました。

天内――篠原が言う「ハード・エッジの空間」とはどういうものか、探ってみました。例えば「輝く都市をきみは見たか」という1993年の文章で彼は、訪れたシカゴとトロントを比較して、シカゴがハード・エッジ的だと書いています。シカゴというと、水平に広がる湖面にむかって、グレーでスクエアな高層ビルが建ち並んでいる風景をまず思い浮かべます。それに対してトロントは建築家たちの衝動を映す「輝く都市」だという。
 思い出すのは、美術史家のハインリヒ・ヴェルフリンが、ルネサンスとバロックを比較して論じたことですが、そこで線的なものと絵画的なものという説明をします。絵画的というのは、油絵のタッチで1個のシミから始まって色としての塊ができ上がっていく感じです。それに対して線的というのは、色の塊が存在するということよりもエッジで輪郭を分けるということを重要視する表現の仕方です。
 現代美術にもハード・エッジ絵画と名付けられた動きがあって、色の面をくっきりとした線で分割するような抽象絵画ですね。あるいはキャンバスの形そのものが絵画の表現になっているようなもの。フランク・ステラの作品などがこれにあたります。こうしたものは線的な絵画と言えます。情念的なジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングらの抽象表現と対照をなしています。
 篠原は、そもそも建築というものは線的な秩序のもとにあるもので、絵画的な建築表現というのは考えにくいと捉えていたと思います。

小倉――シカゴがなぜハード・エッジか、というところですが、それはやはり、ミース・ファン・デル・ローエの街であるという意識が強かったのでしょうね。篠原が海外へと行き出すのは同時代の他の建築家と比べて遅く、1970年代前半からです。アーカイブには海外旅行で撮った大量の写真が残っていて、昨年学生と数えたところ12,000枚くらいあったのですが、それを見ると、建築作品の写真はすごく少なくて、大都市のスカイラインを撮ったり、何でもない街中の風景を撮ったり、そういうのがほとんどです。路地を撮ったり、本当にそればっかりなんですよね。

天内――篠原の写真の中ですごく印象的な1枚があって、両側の建物に挟まれた坂道の奥に海岸が見え、その手前にてんでに歩いている人たちが写っているというものです。線的な統制が効いている都市空間の中で、絵画的とは言わないまでも、カオス的な都市のアクティビティが垣間見える。そういうところに魅力を感じていた人だったんだなとわかります。

小倉――篠原は1964年に「住宅設計の主体性」という文章を発表しています。そこでは「いかなる都市デザインからも自由である」と書いています。つまり住宅のデザインのやり方と都市のデザインのやり方は、独立していてよいのだ、と。それが後になって、「ハード・エッジの空間」を論じるころになると、都市空間も住宅と連動した方法論で行くという考え方へ展開していきます。ハード・エッジで明確な形をもったフラグメント群によって、建築や都市の空間やスカイラインを構成していくという設計の手法になるのです。非住宅でアンビルドの計画案などを手がけながら、建築と都市を連動させる用意がある、というふうに言い出すわけですね。DOM本社屋計画案(1980年)など、非住宅で規模が大きな作品を手がけるようになって、社会状況の変化とともに自分の設計論も変わっていったのではないかと考えられます。

様式という言葉の使い方

天内――篠原はどういう芸術に関心をもっていたのでしょうか。

小倉――書かれたものを読むと、僕が知っている限り、美術家への言及は極めて少ないです。ひとつは「谷川さんの住宅」に脚立みたいなものが置いてありますが、あれはセザンヌのアトリエにあったものを参照したのだと『11の住宅と建築論』(1976年)の巻末で漏らしています。もうひとつが「第3の様式」という文章で、自分の様式をめまぐるしく変貌させていくピカソへの共感を明かす。篠原が様式という言葉を使うのは、この時がおそらく初めてです。建築で様式というと時代で共有されるものですよね。本来は作家個人の様式という使い方はない。

天内――篠原が言う様式は、その後の量産ということを多少は考えていて、その原型を自分はつくるのだという意識があるんだと思います。量産ゆえに、プロジェクトごとの施主の要求や敷地の条件に揺り動かされることのないものを自分の中にもっておく必要がある、それが様式だという捉え方。そこに篠原の強い作家性というものを見ることができると言えます。

小倉――もうひとつ、これは言及ではないのですが、篠原が遺した膨大なスケッチの束の中に、キュビズム的な絵画や彫刻作品が紛れていました。前後関係からすると「蓼科山地の初等幾何」の検討中でしたが、それ以外の作品でも晩年のスケッチはそうした近現代美術作品と通じるものがあるようにも感じられます。本人は明かしませんが、篠原は美術界もかなり追っていたのでしょう。

メディアを駆使する建築家

小倉――天内さんは分離派建築会について研究をされていますね。篠原一男とつながる点がありますか。

天内――分離派建築会が現れた大正期というのは、建築家たちが初めてマーケットにさらされる時代なんです。それまでは大学で建築を学んで卒業すれば誰でも国から設計の仕事がもらえていたのに、新興の企業人や文化人を相手に自分を売り込まなくてはいけなくなった。自分の様式というものを示す必要があるわけです。個人の様式ということを最初に言い始めたのは、分離派建築会の堀口捨巳でしょう。篠原も堀口のことは意識してたでしょうね。「住宅は芸術である」という言葉も、分離派建築会の「建築は芸術である」という宣言が下敷きになっていると考えられます。

小倉――メディアの使い方という面からも、篠原は堀口を受け継いでいると言えそうです。写真や書籍の効果を駆使することで建築家として大成した人にはまずル・コルビュジエがいるわけですが、堀口も自分が設計した住宅の作品集をつくり、その本の装丁までしっかりとやる。篠原は装丁まではしませんが、写真や発表図面に大変厳しいことが知られていて、メディアを使って建築を表現することをやはり強く意識し、それを〈虚構の空間〉と呼ぶわけですね。

天内――ちなみに堀口の著作にも判型が正方形のものがあります(板垣鷹穂との共編著『建築様式論叢』1932、岡田邸=1933のモノローグ『一住宅と其庭園』1936など)。篠原さんの作品集もそうでしたよね。今回は建築界の外から、篠原が芸術をどう捉えていただろうかということを想像を交えて語らせてもらいました。今の若い人たちにとって、篠原はわかりにくいところがあるかもしれないですが、その内部には語られにくい必然性がある。そのあたりが伝わればいいと思います。

小倉――篠原自身は自己参照的に言説を語るし、作品もそういう展開で説明していくので、本人以外は誰も語れないのではと思われてしまうのですが、同時にやはりいろいろな参照の文脈を抱えている人でもあるんです。篠原を広く捉えて語ってもらおうと、今回の展覧会では天内さんを含め、100名の方々にハンドアウトに篠原への応答を寄稿いただきました。。今日のトークも、篠原の可能性を開いていくような内容になったと思います。ありがとうございました。

開催日:2025年5月11日
於:TOTOギャラリー・間 4Fにて
編集:磯達雄(Office Bunga)

第2回「現代建築史のなかの篠原一男」
出演:江本弘(明石工業高等専門学校准教授)×小倉宏志郎(東京科学大学技術支援員)

小倉――スイス連邦工科大学チューリヒ校に留学した時に、篠原一男が書籍や雑誌でよく取り上げられていて、海外での関心の高さを実感していました。

江本――僕は小倉さんの数年前に同じところに留学していましたが、やはり、図書館の返却デスクに大量の篠原一男の作品集が並べられていたことを覚えています。日本語以外のものが多く、色とりどりだった記憶です。篠原について僕が日本で描いていた孤高の建築家というイメージと、スイスでポップに受容されている印象とが、すごく乖離している。そのことにまず興味を覚えました。

小倉――今回のトークでは、建築史における篠原一男の位置付けについて、論じたいと思います。

江本――僕はこれまで篠原の研究者ではなく、テーマの一つとして、日本がどのように世界の近現代建築史に書かれたのかについて研究してきました。それで海外のいろいろな近現代建築史の通史本を集めているのですが、今回、篠原に関するものを読み直して、気が付いたことを話してみたいと思います。結論めいたことをまず言ってしまうと、篠原には二面性があって、日本国内と海外で、自分をどうアピールするかを意識的に変えている。今日、はっと気が付いたんですが、展覧会のチラシに使われている「谷川さんの住宅」の内部写真は、篠原本人とガラスに映った虚像が、内側と外側をそれぞれ見ていて、彼の二面性を見事に表現していますね。

「篠原一男 空間に永遠を刻む――生誕百年 100の問い」チラシ

小倉――多木浩二が撮った写真です。この構図は、さすがですよね。江本さんには「『篠原一男 100の問い』への『100の応答』」という冊子で、「不確かさの表現」という言葉について書いていただきました。

江本――「不確かさの表現」について篠原が書いたのは雑誌『新建築』の1971年1月号です。日本の民族性をどう表現するかについて語るときの、節のタイトルに使われました。でも読んでみると、本文と節のタイトルが、あまり結びつかないように感じます。

小倉――わざとわかりづらく書いているように思います。

江本――そう、わかりづらく書いているのに、語り方はかなり断定的なんですよ。日本人の民族性というのも前提として疑わしいのに、自明のものとしてさっさと片付けて、その先に浮かび上がる仮説の仮説の仮説みたいなものを語ろうとする。篠原の言説には“たら・れば”が多いけれども、何のためにそういう断定的な仮説を積み重ねていかなければならなかったのか。それを考えて、日本国外の見方を意識しているんじゃないかと思い至ったんです。

小倉――これは日本語で書かれてますけれども…。

江本――まさにその通りで、日本国外の人に向けては、こんなことをわざわざ言わないだろう。 日本人向けだからこそ、これを書いたということです。ある種の二枚舌を使っているのではないか、という考えが僕の中でもたげてきました。篠原は、国内外にそれぞれどういう情報を出して、どういう情報を出さなかったのか。そのあたりに関心が向いていきました。

作品集の註に込められたメッセージ

小倉――篠原一男がどのように海外で受容されたのかを確かめるため、年表を制作しました。海外で発行された書籍や雑誌の記事、海外での展覧会、海外視察などの事項を時系列で列挙しています。海外の雑誌に初めて掲載されたのは1957年で、フランスの建築雑誌『L'Architecture d'Aujourd'hui』が「久我山の家」を取り上げています。

江本――今回の展覧会に合わせて、もともと1996年にTOTO出版から発行された篠原の作品集が復刻されました。この本では、篠原が海外でどのように紹介されたかについて、所どころ註をつけながら語っています。これがとても興味深い。たとえば註をわざわざ付ける箇所には、その元をたどってくださいというメッセージがある。「久我山の住宅」については、デビュー作が国外で紹介されたことをアピールしていますが、フランスと英国で紹介されたけど、英国の『Architectural Design』についてだけ註に記しています。ただし、桂離宮とミースの影響があると批評された、と書いているけど、原文にあたると、「久我山の住宅」の評のところにはミースの名前は出てきません。

小倉――これは意図的なのか、それとも単なる記憶違いなのか。

江本――わかりません。でも篠原自身がミースを強く意識していたことは間違いないでしょうね。『Architectural Design』では、1972年にも『篠原一男 16の住宅と建築論』の書評が載りました。書いたのは、ニュー・ブルータリズムを先導したピーター・スミッソンです。これについて篠原は、評者の名前を挙げて、記事になったことを紹介しています。これも原文をあたったら、短めでしたけど辛辣な評でしたね。

小倉――作品は面白いが言説が作品と乖離しているとか、実作は日本の伝統とイタリア建築の流行の混淆のようだとか。

江本――この箇所に、註はついていません。スミッソンという有名人に書評されたことは知ってもらいたいけど、原文を掘り返してもらいたくはないという気持ちからでしょうね。

小倉――その書評が出て半年後、篠原は初めて海外旅行へ出かけています。

江本――そのときに〈第2の様式〉は既に最終地点にあった、みたいなことを書いていますね。日本の外に自分の身を置くことで、自分が捉える建築様式も変化したということでしょうか。

小倉――その可能性はありますね。1970年代に篠原は、キューブを基本にした〈第2の様式〉から、「谷川さんの住宅」のような〈第3の様式〉へとガラリと変わる。その転換の前後に、海外旅行での体験があるというのは本人もお気に入りのストーリーです(『新建築』1977年1月号「第3の様式」)。

世界建築史における篠原と磯崎

江本――今回再販された篠原の作品集で、僕が一番強い印象を受けたのは、最後のところです。1980年代に論じた機械のコンセプトを振り返りながら、こう書くのです。「私が組み立てた空間に〈私の名〉と〈日本の国籍〉が浮かび上がったならば、この命題の有効性が検証されたことになる/さらに時間がやがて証明する、高性能機能を優美な単純輪郭で包んだ、透明な力の幾何学が未来に向けた射程の大きさを。そのとき、私の新しい前衛線、〈第5の様式〉が展開する」。これは予言者の言い方です。〈第5の様式〉が展開されるのは、生前ではなく自分が死んだ後のこと。しかし自分がいなくなってからも、自分のことばを解釈し続けてくださいというメッセージなのだと思います。それは同時に、世界建築史に自分の名前を残したいという、強烈な欲求の表れだと感じました。

小倉――〈名前〉と〈国籍〉は1981年に予言されていて、これが「建築へ」(『新建築』1981年9月号)という論考、つまりル・コルビュジエへのオマージュなんですよね。篠原は「モダニズム:コルビュジエ、フランス」のように固有名詞でものを考える傾向がありますが、世界建築史に残る日本の建築家というと、現状では誰がいますか。

江本――例えば磯崎新ですよね。東京工業大学でも教えていたデイヴィッド・スチュワートが、英語による日本の近現代建築史『The Making of a Modern Japanese Architecture: 1868 To the Present』(Kodansha USA Inc)を1988年に出版するのですが、その表紙に大きく使われている写真は磯崎が設計した「北九州市立図書館」です。ただし、この表紙には仕掛けがあって、小さく別の建物の写真も載っている。

小倉――障子の内観は篠原が設計した「鈴庄さんの家」ですね。

江本――そうなんです。それから、瓦だけ切りとった写真も実は「白の家」の屋根です。さらに裏表紙には「上原通りの家」の内観が一面にあしらわれています。また、中身を見ると磯崎と篠原はだいたい同格で、磯崎の方がページ数が少し多いくらい。でもトリを取るのは篠原になっています。

小倉――ここぞ、というところに篠原が配置されている。

江本――そしてこの本が2002年に再刊されます。その際に、サブタイトルが『From the Founders to Shinohara and Isozaki』と替えられました。磯崎の名前が後に来ているけれど、中身は変わらないので最後を締めるのはやはり篠原。この本の構成について、著者に話を聞いてみたかったですね。

小倉――非常に残念ながら、スチュワートさんは今年の4月にお亡くなりになられました。この展覧会にもいらっしゃる予定だったんですが。

江本――各国で出された近現代建築の通史をチェックすると、磯崎の名前は1971年代の初めくらいから出てきます。西洋建築の通史として、改訂されながら読まれ続けている『フレッチャー建築史』の第19版にも載って、篠原もそれを追って第20版から出てくるようになります。スピロ・コストフの『建築全史』だと、第2版から日本への言及が加わって、磯崎が取り上げられる。ところが、これをリチャード・インガソルが改訂した版では、磯崎への言及がほぼなくなっているんです。一方で2010年以降、世界各国で出版される建築書を見ると、磯崎関係の本よりも篠原関係の方が明らかに多い。

小倉――そういう海外での関心の高まりに応じて、今回の篠原作品集の復刻では、論文と作品解説を英訳したブックレットも制作していただきました。

江本――とても意義深いことですね。日本の近現代建築史というと、これまではまず丹下健三がいて、その流れで磯崎が論じられる、篠原は必須ではないという認識のされ方だったと思います。けれども今から10年後、20年後は、どうなっているかわかりません。ちなみに、篠原一男に対する海外での関心のありようがうかがえる指標の一つが、Wikipediaです。言語ごとに情報の量が違うんですよ。篠原について、最も詳しく書かれているのはドイツ語版です。

小倉――大方、スイス人が書いているんでしょうね。

江本――今日の話をまとめると、篠原一男は自分について建築史に書かれるという強い自意識をもっている人だったということです。

小倉――その手助けを、我々も知らず知らずのうちにすることになっているということですね。ありがとうございました。

開催日:2025年5月25日
於:TOTOギャラリー・間 4Fにて
編集:磯達雄(Office Bunga)

 
磯達雄 Tatsuo Iso
編集者・1988年名古屋大学卒業。1988~1999年日経アーキテクチュア編集部勤務後2000年独立。2002年~20年3月フリックスタジオ共同主宰。20年4月から宮沢洋とOffice Bungaを共同主宰。
https://bunganet.tokyo/
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著者=篠原一男
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